リングの上で対峙する二人の少女の口から漏れる息は弱く緩慢であった。左右の瞼も頬も痛々しく赤紫色に腫れ上がり拳を握り締め肩まで上げている両腕は構えを取っているのが精一杯のようだ。
満身創痍の姿となった麻結と柚月。左右の拳にコスチュームと同調する赤いボクシンググローブと青いボクシンググローブをはめた二人のボクシングの試合は終幕を迎えようとしていた。あと一発しかパンチが打てない…。自身の残りの体力を麻結は意識が朦朧としてきていながらも冷静に把握していた。しかし、柚月の体力がどうなのかまでは分からない。試合は5Rを迎えた。当てたパンチも食らったパンチもほぼ同じくらいだ。でも、パンチの威力には差がある。寝技もこなせるオールラウンダーの麻結に対して柚月は生粋のストライカー。悔しいけれど打撃の威力では敵わない。柚月に勝つには彼女以上にパンチを当てていかなければだめだった。それでも打撃だけの勝負で互角といってもいいほど一進一退の試合が出来ているのだから上出来だ。次の一発を柚月よりも先に当てなきゃ。そのパンチを当てて柚月が倒れなかった時はその時はその時だ。とにかく残り一発しか放てない次のパンチを柚月よりも先に決める。
自分がすべきことを整理した麻結は前へと向かっていった。もう細かい駆け引きが出来るような状態じゃない。渾身の力を込めたパンチをとにかく打つんだ。そう思いを込めて、麻結はパンチを打ちに出る。麻結の闘志に呼応するかのように柚月もまた全力で前に出て渾身の力を込めた一撃を打ち放った。
麻結と柚月のパンチが交差して、そして、運命の一撃が決まった。
「あぁっ!!」
リングの間近から先輩である二人の試合を見守っていたミシェルとへレーナが感動とせつなげな思いが混じり合う感嘆の声を上げた。 麻結も柚月もお互いのパンチが頬にめり込まれていた。クロスカウンターの相打ちだ。壮絶な光景にミシェルとへレーナだけでなく試合を見ていたジムの練習生が皆言葉を失い二人の姿に目を向けていた。
パンチのダメージに負けないようにぐぐっと歯を喰いしばる麻結と柚月。頬がひしゃげ痛々し気な顔へと変形している麻結と柚月は勝つのはわたしだからと言わんばかりにパンチのダメージに堪えながら相手の顔に目を向けていた。パンチのダメージに動けず頬にパンチをめり込ませながら睨みあう時がわずかに続き、そして、麻結だけが負けたくない感情に満ちていたその目から力が消え白目へと変わった。それと同時に麻結の左腕が下がり落ちる。先にパンチを決めるという麻結の目論見は破れ、相打ちとなったパンチのダメージに麻結は懸命に耐えていたが、やはりパンチの威力では柚月には敵わなかった。麻結の両腕がだらりと下がり、ゆっくりと後ろへと崩れ落ちていく。
クロスカウンターの相打ちに打ち負けた麻結がキャンバスに倒れ落ちると、レフェリーを務めていた羽澄咲が両腕を交差した。
練習試合だというのにゴングの係を務めていた練習生は思わず試合終了のゴングを打ち鳴らした。観衆の前の試合にも劣らない緊張感に満ちた試合の終焉に相応しい正式な終わりを迎えたいと打たずにいられなかったのだった。
試合終了のゴングが打ち鳴らされる中、麻結は仰向けの体勢で両腕を大の字に広げ身体を震わせていた。
柚月は咲から左腕を掲げられている中、「麻結ちゃん……」と心配そうにジムで切磋琢磨する仲間でありライバルの姿を見つめていた。
女子ボクシングの三対三の団体戦トーナメントであるドリームトーナメントに参加する羽澄格闘倶楽部の三人目のメンバーが柚月に決まり、ミシェルとへレーナを含めた三人はチームの平均年齢16.3歳、そして総合格闘家のチームでありながら一回戦を勝ち上がる快挙を遂げた。二回戦では惜しくも山崎茜をリーダーとする彼女色のリングチームに敗れてしまったが、大健闘といってよかった。メンバーから漏れた麻結もセコンドを務め、全力でサポートをし一回戦を勝ち上がった時は自身の試合であるかのように一緒になって喜んだ。四人でチームの勝利を喜び合ったのだ。
あれから二ヶ月が経とうとしていた。
麻結はジムの中でいつものようにサンドバッグに向かって打撃を打ち込むもののどうにも気持ちが入りきらずにいた。二か月後には女子の総合格闘技イベントであるストライクアロウズが控えていて去年参加したように今年も麻結は参加をするつもりでいた。総合格闘技の団体として小規模で五百人が収容できる大きさの会場で行われているにすぎないが、出場する選手は同年代の選手が多く、自分の実力を磨くにはもってこいの場所であった。
しかし、練習への没頭を邪魔するようにちらつくドリームトーナメントのリングで闘う柚月たちの眩い姿、そして、柚月とクロスカウンターの相打ちに力負けしてキャンバスに倒れた苦渋の瞬間。時間が経っても麻結の心の中に離れずに強く残っている。心に付きまとうこの思いをどうにかしないと総合格闘技の試合に打ち込むことが出来ない。思い悩む麻結は両足にレガースをはめこれからトレーナーとミット打ちをしようと準備をしている柚月に近寄ると何を思うでもなく話しかけた。
「ねぇ柚月」
マットに尻を付けながらレガースを右足に付ける柚月が顔を上げる。
「ドリームトーナメントさぁ、あれでボクシングすごく満足した?」
柚月は少し考える風に下を向いてそれから麻結の方へと顔を上げ、
「そうね。最後負けちゃったから悔しさは残ってるけれど、私の本職は総合のリングなんだから、十分やれたと思ってるけど」
と答えた。
「そうかっならいいんだ」
麻結はそう言うとそれっきり黙った。両足にレガースを付けて、打撃練習の準備が出来た柚月が立ち上がる。ミットの用意をしているトレーナーの元へ向かおうと一歩出ようとしたところで立ち止まり、麻結を見た。
「麻結ちゃん、もしかしてボクシングの試合に出たいの?」
「えっ…う~んいやぁ…」
柚月の問いかけに麻結は煮え切らない返事をする。
「ボクシングに魅力を感じてきてるんならいっそ出た方がいいと思うけど」
「う~ん・・・でもプロボクシングのライセンスを取って試合に出続けるのも何か違う気がするんだよね。やるならチャンピオンを目指したいじゃん。でも、あたしは来年のブレードGPでは優勝したいし」
麻結の返事に柚月も 「そうねぇ」と頷いた。
「巡り合わせってやつかしらね」
麻結も同調するように腕を組みながら深く頷いた。
「じゃあ来週のキャノンボールは麻結ちゃん観に行くの止めとく?」
キャノンボールは日本国内で最大規模の総合格闘技イベントである。男子の試合が中心であるが女子の試合も数試合組まれている。試合数が限られているだけに女子で出場できる選手は日本人の選手の中でもごくわずかである。
「ちょっちょっと待って、行かないわけないでしょっ次の大会は鷹品さんが出るんだからっ」
鷹品愛は日本でもトップクラスの総合格闘家だ。長い髪を後ろに束ね凛々しい顔をしているが全盛期には世界最高峰のMMA団体と呼ばれているUFAでもタイトルマッチの試合をしたことがあるほど実力も高い。去年まではキャノンボールの女子フェザー級のベルトホルダーだった。
「麻結ちゃんの鷹品さん愛ってすごいよね」
「鷹品さんのリングで闘う姿を見て惚れない方がおかしいっ」
「私はそんなことないけどおかしいのかな」
麻結はごほんっと咳払いして、
「ともかくわたしも来週行くからねっ」
と念を押した。
イベント当日。鷹品愛の試合は興行のちょうど真ん中である第7試合に行われ、アメリカ人の強豪ファイターを相手に2Rに腕ひしぎ逆十字固めで一本勝利を収めた。日本人対海外の強豪を中心としたカードは日本人の負けか勝っても判定勝利という耐え忍んでみる時間が続いていただけに、鷹品愛の華麗な一本勝利は場内を大いに盛り上がらせた。中でも麻結は興奮を抑えきれずに「やった~!」とか「よっしゃー!」とか大声を何度も上げて会場の誰よりも目立つ声を上げた。その興奮は鷹品愛の勝利者インタビューになっても勝利の余韻として続いていたが、鷹品愛の一言を機に興奮は動揺へと変容した。
「来年を持って選手を引退します」
鷹品愛の引退宣言に動揺の声が広がった。中には「止めないで!」と泣き叫ぶ女性の姿もあった。麻結も声こそ出さないが心情は同じようなものでこの事実を受け止めきれずにただただ呆然と引退の理由を説明する鷹品愛の姿を見続けていた。
鷹品愛は麻結にとって総合格闘技を始めるきっかけとなった一人だ。彼女への憧れが彼女のように強い女性になりたいという思いが麻結を過酷なジムの練習に音を上げずにそれどころか自分から率先して課せられた以上の練習をこなし逞しく成長させた。総合格闘技の試合に出場するようになっても鷹品愛の試合は欠かさずに観に行っている。
それだけに彼女が引退する喪失感は大きく、大会が終わって電車に乗り、地元に帰って来ても麻結はいつもの元気を出せなかった。
「ねぇ麻結ちゃん」
麻結の隣を一緒に歩く柚月が言った。
「鷹品さんの引退は来年の夏でしょ。あと2試合やりたいって言ってたし対戦相手に立候補してみたらどう?」
「あたしが?」
麻結は目を点とさせて人差し指で自分を指した。
「いやいやあたしなんて格闘家としてまだまだひよっこだから鷹品さんの貴重な残りの試合の対戦相手だなんて恐れ多いよ」
麻結は右手をひらひらと泳がす。
「ずっと鷹品さんを追いかけてきたんでしょ。これが闘える最後のチャンスだよ」
柚月は自分のことのように力を込めて言った。それでも、麻結は、
「いいんだっ鷹品さんの闘ってきた姿はわたしの目にずっと焼き付いている。それで十分なんだ」
鷹品愛のあと二回となる試合の対戦相手に名乗り出る大胆な気持ちを持とうにはどうにもなれなかった。断られるのが怖い臆病なのか、彼女への思いなどその程度でしかなかったのかよく分からないが、大切な人の最後の闘う道をこれまで同様に観客として見守る立場を崩す気になれないのだった。
夜空は霞のような薄い雲に覆われ、丸い月が朧げに顔を出していた。その夜空を見上げる麻結の顔も同調するように覇気のない顔をしていた。
一週間が経過した。羽澄格闘倶楽部で麻結が練習の準備のためにストレッチをしていると、柚月が入り口の扉を開けて、麻結の方へ勢いよく向かってきた。
「麻結ちゃん!」
珍しく声を荒げる柚月の服装は学校帰りでセーラー服の制服のままだ。
「どうしたの柚月?」
麻結が戸惑い気味に尋ねた。
「これ見て!」
柚月が右手に持っているのは日刊のスポーツ新聞である大空新聞だった。スポーツ新聞といってもゴシップの色が強く他のスポーツ新聞と違い格闘技にもだいぶページを割いているが、それでも格闘女子とはいえ女子高生の柚月が手にしているのはいささか不釣り合いな組み合わせにみえた。
「大スポってこれ十代の少女が読むにはちょっと渋いんじゃないっ」
麻結の指摘を柚月は気にせずに、
「いいからっ」
と開いたページをさらに麻結の顔に近づける。これでは目にする気が無くても嫌でも記事が目に入る。
そのページには「女子ボクサー瀬野真里香 鷹品愛の対戦相手に名乗り出る」と見出しが書かれていた。
麻結が柚月から新聞を奪って食い入るように新聞を読んだ。記事の内容は次の通りであった。
ツヨカワ女子で今注目の美形女子ボクサー瀬野真里香が来年の夏に引退とする宣言したばかりの鷹品愛の引退試合の相手に名乗り出た。鷹品愛の引退試合の相手が務められるのなら総合格闘技のルールでもかまわないと彼女は言う。ボクシングでデビュー以来無敗、WBCユースチャンピオンであり実力は若手の女子格闘家の中でもピカ一の瀬野であるのならば、総合格闘技のリングで闘った経験は無くてもジョシカクのレジェンドである鷹品の最後の相手としては資格十分。若手の女子格闘家の中から真っ先に対戦相手に名乗り出た瀬野に対して鷹品はどう出るのか。鷹品の引退ロードから目が離せない。
「MMAで闘ったことがないのに鷹品さんの引退試合の相手を務めたいだって!ふざけるな!」
激昂した麻結は思わず新聞を床にたたきつけた。
「世界のトップファイターたちと闘ってきた鷹品さんがユースチャンプを相手になんてするわけないよっ。しかも引退試合でなんて冗談じゃない!」
「でも、ありえない話じゃないよ」
怒りのあまり頬を紅潮させる麻結に対して柚月は冷静に新聞を拾いながら言った。
「彼女、実力っていうよりもルックスが良いからメディアにすごい出てるじゃない。引退試合って若手に継承する目的で対戦相手を決めること多いし、話題性だけなら若手の中でも彼女はトップクラスだからカードを組まれる可能性は十分あると思うけど」
と冷静に状況を麻結に説明する。
「どうするの麻結ちゃん」
麻結は即座に、
「瀬野真里香に直接言ってくる!」
と大声で言って駆け足でジムの外へと走る。
「えっ……直接?」
麻結を炊き付けたとはいえ今この場で瀬野真理香の元へと行くとは思ってもおらず、柚月は動揺する。
「ちょっと待って麻結ちゃん!」
麻結を止めたものの、麻結にはまったく届かずにジムの扉へと向かう。麻結は心配そうに、
「もうっ……」
と彼女を見送るのだった。
最寄りの駅から麻結は全速力で走り続け、十分ほどして瀬野真里香が所属する美都ジムの前に着いた。麻結は迷うことなくジムの中へと入る。ジムの中は羽澄格闘倶楽部と大差ない中規模の広さであった。部外者の麻結が中に入ってもジムの練習生は誰も関心を示さずに練習を続ける。羽澄格闘俱楽部と違い人間関係が希薄なのかもしれないと麻結は思った。ジムの関係者から止められないうちにと麻結は瀬野真里香を探す。金髪にツインテールの髪型をしている彼女を見つけるのは難しくなかった。
すぐにサンドバッグを叩いている彼女を見つけて、向かう。
「あんたが瀬野真里香?」
麻結が横から聞いても、真里香はパンチをかまわずサンドバッグに打ち込んだ。サンドバッグはバスゥッ!!という激しい音を立てて大きく揺れ動いた。童顔のパンチから放たれたとはとても思えないパンチの威力に麻結の目が一層細まる。羽澄格闘倶楽部では一番のハードパンチャーの柚月だってこれほどの威力のパンチを打てない。これがボクサーのパンチの威力ってやつなのか……。麻結が真里香のパンチの威力に驚きを隠せずにいると、真里香が麻結の方を振り向いて、
「真里香のファン?」
と頓珍漢なことを聞いた。
「悪いけれど真里香は今練習中なの。サインなら練習が終わった後にしてくれる?」
真里香は邪険な顔をしてまたサンドバッグへと身体を向ける。
「サインなんているかっ。あんた、鷹品さんの引退試合に名乗り出たんだってね」
釣れない顔をしていた真里香が目を丸くして、
「あなた誰?」
と聞いた。
「あたしは飯島麻結。総合格闘家だっ」
「飯島麻結? 聞いたことないけど」
真里香は首を傾げる。
「ブレードGPのベスト4までいったことある。ジョシカクの世界じゃそれなりに名を知られてるよ」
麻結が自身の実績を説明しても真里香は事情を掴めない顔をしている。
「それであなたがなんで鷹品愛の引退試合でがぁがぁ言ってるの?」
まったく噛み合わない会話に麻結は苛立ちが増す。それに鷹品愛を呼び捨てにしていることも麻結には気に食わない。
「鷹品さんの引退試合はすごく神聖なものなんだ。あんたみたいな女子ボクサーと試合をしてイロモノみたいな試合になっちゃ迷惑なんだよ」
「イロモノねぇ。でも、プロの試合なんだから注目を集めなきゃダメなんじゃない? あなたは世間に届かせること出来るの? 」
やはり真里香とは考え方が全然合わない。麻結は怒りに任せて、
「あたしと試合しろっ。わたしに勝てばもうあなたの言うことに何も言わない!」
と言い放った。
「あなたと真里香が?」
真里香は以前としてきょとんとした表情をみせる。
「あなた程度じゃ試合しても真里香に旨味は何もないわ」
真里香は不服な顔をして首を横に振った。好きじゃない食べ物を前にしたかのような反応である。
「ユースチャンプなら実績はそんな変わらないじゃないっ」
「ち・め・い・どの差がすごくあるじゃない」
「知名度なんて関係ないっ。実力だろ格闘技は」
「噛み合わないわねぇ」
それはこっちの台詞だと麻結は心の中で怒鳴る。
「じゃあボクシングの試合でならどう?」
「あたしがボクシング?」
思いがけない真里香の提案に麻結は戸惑った。
「あなたから試合を申し込んできたんだから闘いの方式を決める権利はあたしにあるんじゃない」
真里香の主張に初めて麻結は頷けるものを感じて、少し考え込む。しかし、悩む必要なんてなかった。鷹品さんのためなら不利なルールだってかまわない。麻結は右拳を突き付けて言った。
「わかった。ボクシングでもなんでもいい。あなたの指名するリングで闘ってやる」
「じゃあCross Game Boxのリングねっ」
「Cross Game Box?」
「知らないの? 新しく出来た女子ボクシングの団体名よ。ボクシングのライセンスを持たないあなたと試合をするにはこういったリングじゃないと」
真里香から説明されて、最近ミシェルとへレーナがジムの中で話題にして盛り上がっていたことを思いだした。名護遥がチャンピオンになったとか言ってたのはこのことだったのかと麻結は合点がいく。
「いいよっCross Game Boxでもなんだってさ」
麻結がそう言い、総合格闘家とボクサーによるホープ同士のボクシング対決が決まったのだった。
約束を果たし終えてすぐに美都ジムを出てから、だんだんと心が冷静になっていった。鷹品さんの引退試合を守るためとはいえ、自分にだいぶ不利なルールを呑んだもんだと麻結は思う。
「柚月に怒られるかな……」
麻結を斜めに釣り上げる柚月に顔が思い浮かび、麻結は顔をしかめた。
「でも、これも巡り合わせか……」
柚月の言葉を思い出しながら麻結は仲間の元へと帰って行く。
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